加害者側に属するコミュニティはいつまで被害者を追悼するのが常識なのか?
「都民ファースト」で話題になっている小池百合子都知事が、関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺の追悼式典で、追悼文を送らないことにしたという。
一般的に、悲劇っていうのはいつまで追悼し続けるのが正しいのでしょうか。
人類の歴史には数え切れないほどの愚行があり、数え切れないほどの犠牲者があります。
で、まあ起こした罪を反省するのも重要なのですが、いつまで経っても罪を反省するために無条件に積み重ねていくと、くるくるパーで本質的には差別大好きな人間のことですから、1000年後には365日24時間どこぞの誰かに追悼しなければならなくなります。
関東大震災が起きたのが1923年とのことで、まあざっくり言えば100年前です。
100年前の虐殺事件が起きた地域の長は、追悼文を送ることが常識なのでしょうか? そもそも毎日仕事が山積しているなかで、本人が生まれていない時代の事件にちゃんと正面から向き合うことができるほどの大人物はどれくらいいるのでしょうか。
自分の祖父の祖父の祖父の祖父が殺人事件を起こしたことがあって、謝罪が必要だからと被害者の家族にとりあえず毎年謝罪している、なんて例があったとしたら、それは正しいことなのでしょうか。
まあ色々あると思いますが、理想と現実で折り合いを付けるのがベターなんじゃないでしょうか。
・犠牲者の親族が生きている限りは追悼するべき(理想)
・事件に対して憤りを感じる者がいる限りは追悼するべき(理想)
・直接の被害者が生きている限りは追悼するべき(現実)
・反省しているのならばもう永遠に追悼するべき(現実)
・100年くらいは追悼するべき(現実)
ジェノサイドとかポグロムとかホロコーストとか、まあ差別と偏見と人間の愚かさに基づく民族ぶっ殺しショーっていうのは歴史の中で今まで繰り返し起こっていたことで、「組織をあげて謝罪すべきこと」というのが常識になったのはわりと最近、二度の世界大戦の後からくらいなんでしょうか?(勉強不足で詳しく知りませんが、多民族に対する追悼式典が歴史に登場するのはいつくらいからなのでしょうか)
というわけで、追悼には歴史がないので、とりあえず毎年謝ったり追悼したり続けているわけですが、まあ何十年かくらい追悼なり謝罪したら何らかのきっかけを機にフェードアウトしないと、いつまで経っても仕事が減らないのである程度は仕方ないのではないでしょうか。
被害者側からしたらたまったものではないのですが。しかし落とし所がないので許すこともまた選択なのでは。